2021年03月10日

山頭火におもう





「種田山頭火という生き方」
大山澄太(俳人)
より抜粋

山頭火という人は幾度か私の家に泊まりましたが、
帰る時、いつも後ろを振り向きもせず一目散に駆けていくのです。

見送るほうとしては物足りんのですね。

だからある雪の降る夜、山頭火が私の家に泊まった時、いつものように酒を飲みながら

「あんたが帰る時、僕らが名残り惜しんで見送るのに、いつも後ろを見ないで、すーっと逃げるようにして行く。あれはどうしたんか」

と私が尋ねると、山頭火は酒を飲むのをやめましてね。

「君、そう言うな。
君らは月給もろうて生活に心配ないが、僕のような漂泊の乞食坊主は
あんたらに別れたらこれが最後で、どこで野垂れ死にするやら分からない。
ひょっとしたらもう会えんと思うとつろうてならんので、涙が出て、自分の涙を踏み踏み歩きよる。

手を振ったり、後ろ向くゆとりがないんだよ。
『一期一会』というからの」

そういう純な思いで出て行く人に、物足らんと思うのは愚かだなあと気がつきました。


振り返らない道がまっすぐ
まっすぐな道でさみしい


その頃の山頭火の句です。

こういうところに山頭火の歩みのなんともいえんものが響くのであります。

ある年の暮れ、仕事で山頭火の庵の近くまで来たので、酒を持って訪ねました。

夜まで話が弾み、さて帰ろうとすると、

「澄太君、すまんが長い間、人間と一緒に寝ておらんので、寒いぼろの庵だが、ここへ泊まってくれ」

という。

寂しがる先輩を残して帰るのもなんだから、

「それでは泊まろう」

ということになったが、いざ寝ようとしたら蒲団が一つしかない。

山頭火が

「君が泊まるので嬉しいから寝ずに起きとる」

と言うので、蒲団に入ったが、小さくて薄い蒲団のため寒くて眠れない。

「どうも寒くて、眠れそうにない」

と言うと、山頭火は泣きそうな顔をして

「済まんことだ」

と言いながら押し入れから夏の単衣を出して私にかける。

私は「まだ寒い」と言うと、紐のついた物を持ってくる。

ようく見ると赤い越中ふんどしなんです。

それを私の首に巻く。

臭いことはないが、いい気持ちはしないので「それはいらん」と取って外す。

そのうちに酒の酔いも手伝って寝てしまいました。

東側の障子がわずかに白んだ夜明けの四時頃だろうか、私はふと目が覚めた。

山頭火はどこかとこう首を回して探すと、すぐ近いところで僕のほうを向いて、じーっと坐禅を組んでいる。

その横顔に夜明けの光が差して、生きた仏様のように見えましたなあ。

妙に涙が出て仕方ない。

私は思わず、彼を拝んだもんです。

さらによく見ると、山頭火の後ろに柱があり、その柱がゆがんでいる。

障子を閉めても透き間ができ、そこから夜明けの風が槍のように入ってきよる。

それを防ぐために山頭火は、自分の体をびょうぶにして、徹夜で私を風から守ってくれたのです。

親でもできんことをしてくれておる。

私はしばらく泣けて泣けて仕方がなかった。

こういう人間か、仏か分からんような存在が、軒に立てねば米ももらえんし、好きな酒も飲めん。

その時私は月給の四分の一を山頭火に使ってもらうことに決めました。

山頭火が死ぬまでそうしました。


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まっすぐな道が寂しい。

なんとなく、そんなもんかも知れませんね。

高速道路をひたすら走っていても面白くない。

それはドライブではなく、ただの移動だから。

このたとえでも言ってることはわかりますよね。

まあ、太鼓の活動も色々あるでしょう。

鼓鐵も色々ありました。

けっしてまっすぐではなかった。

いや、恥ずかしくて言えないこともありました。

まっすぐじゃない分、それなりに色んな景色は見れたかも。

どんな人生も、誰の人生も平凡なんて、そもそもないかも。

こっちはまっすぐ歩いているつもりでも、

道はまっすぐでない。

ってこともあるからね。

そんなもんでしょ。







Posted by 和太鼓集団鼓鐵 at 12:09 Comments(0)
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